旧婚旅行へ行こうやあー!
ある夜中のこと。トントンと夫が私の肩を突ついたので目が覚めた。
『何か困ったことがおきたか?』と身構えて、
「どうした?」と返事をすると
「起きとるか?ちょっと話しをしようやぁ〜」と柔らかな声で夫が話し始めた。
“ベットから落ちた”とか、、
“発作が起きそうだ”などの、大変なことが起きたようではない。
ひとまず安心をして
「ん〜、何の話?」と尋ねると、
「わしらぁ〜も、いつのまにか70才を超えてしもうたよの、老い先も短こうなってきたってことよ。じゃけぇの、二人で旅にでも行こうじゃあないか!」と言うのである。
“ひぇ!”とびっくりして、寝返りを打って夫の顔をしみじみ眺めて
「えー、いつからそんなこと考えてたん?」と聞き直した。
「もうずーっと考えちゃあおったんで〜、」と。
「二人で行くってことなら、車ね?私の運転でええのね?」
「おー、あんたの運転は上手いがの。それでええけえの。四国の高知とか、宇和島とか新婚旅行で行ったところをもう一回、行ってみたいんよの。」と言う。
続けて、、
「あんたもの〜、わしが怪我をしてからは、わしの世話ばっかりでちーっとも楽しいこともないままで、悪いのぉと思いよるんで。旅行するお金くらいは、まだ残っとるじゃろう?少しはええ宿に泊まって美味しいもんを食べて、ゆっくりしようじゃぁないか!」と言うのだ。
怪我をしてからの年月を数えてみれば、当初は思い付かないほどの長生きをしてくれて、相棒としていつも私の傍にいてくれる夫である。
『傍に居てくれる、、』はその通りであるけれど、言い方を変えれば
『傍に付き添っている、、』のは私で、
いつもいつも感謝の言葉を言ってほしいというわけではないものの、私は時々、『なんだか私ばっかり損してる!』の不満があるのも確かだ。
けれども『では、半身麻痺の不自由な人を誰がフォローするのか?』を思う時『それは私しか居ないではないか。』と当たり前に思うから、頑張ってやってこれただけのことでもある。
思いもかけない夫の計画を聞いて、
それでも一番に思ったことは、、、
『そうは言っても、何もかも私の肩に掛かってくる大変さを、アナタはわかっておられますの?』
という可愛くない嫌味な考えだった。
しかし。それを言っちゃぁ〜おしまい!
私の相棒が私に『プレゼントをしたい』と考えての提案であるならば、この上無い嬉しいことだ。素直になろう。
ここは一つ、この話に乗ってみよう、と思った。
「じゃぁ、考えてみよっかね?」
と答えると、
「おー考えてくれや。細かい事はあんたに任せるから。頼むで!」と夜更けの会談は終了したのだった。
さて、しばらくしたある昼下がり。本屋に立ち寄り四国特集の本を買い求めた。明るさに満ちた表紙。四国四県のそれぞれの観光地や食べ物が満載で、読めば読むほど、迷ってしまう。
「ねえ、四国のどこへ行こうか?」と聞くと、
「どこでもええが、、」と、気のない声が返って来た。
「宿もどこにしたら良いか迷うよねー?」と訴えたら、なんと!
「それなら辞めるか?」ときた。
『おいおい、相談に乗らないのかい⁈』と腹も立つ。いやいや。
こんなことになるのは最初っからわかっていたのだ。込み入った話は面倒になりがちなことは、わかっていたのだ、今さら怒ることでもない。
私はマイペースで考えるしかない。
それでも、なかなかピンとくる宿屋もなくで、障害の夫との旅はどこに行くかを決めることすら、大変であった。
決めきれないまま数日が過ぎ、我が家の本棚から“見て見て!”というような霊感的オファーを感じて、眺めていると、
《バリアフリーの旅に出よう》という背表紙が目に入った。
『おー、こんな本があったっけ?』
と、開いてみた。バリアフリーの宿として、表彰もしてもらった宿が何軒かある。その中でに松江市に“宍道湖温泉”があると紹介されている。
松江市ならば、私の土地勘もあるし、四国よりかはハードルが下がるなぁ〜と、本気で読みすすめた。
『ここにしよう!』即座に心が定まった。運転手の私が楽だと思えるところに行くのが一番なのだから。
「ね、行き先を松江に変えてもいいでしょ?」とその宿“、なにわ一水”のホームページを開いて見せたら、
「おー、なかなか良さそうじゃの!」
と夫の快諾を得て、予約の段取りに入った。ネットで予約をするなんてことは、古希を過ぎた私にはハードルも高く不安もある。息子に頼めば、ちゃっちゃと全てがスムースに行くのはよくわかっているけれど、旅に息子は行けないのだから。一から十まで私が確信できる予約にしておきたい。それで、昔ながらのやり方でフロントに電話をした。こちらの状況、予算、夫の不自由程度などを聞いてもらう。丁寧な優しい対応に安堵し、この宿に決めた。
さぁ、父さん二人きりの旧婚旅行に行くよ‼️
古希
夫は、70歳になった、右半身麻痺の状態で13年を過してきた。57歳のあの頃に、何事も起こらず暮らしていたなら、どんな夫婦の暮らしをしていただろうか?と、折々に思う。
例えば、スーパーに買い物に行くと、還暦を過ぎた夫婦が寄り添いあって
カゴに好みのものを入れていたりする。そんな時は大抵の場合、旦那さんがカゴを提げている。レジを通る時は奥さんで、買い物品を荷詰めする所に、旦那さんが待っていて、精算の済んだ品物を大きな買い物袋にいれかえる。出来上がった大きな袋を持ってくれるのはもちろん旦那さんだ。
駐車場では、ごく当たり前の事として、奥さんは助手席に座る。
そうだよ、それはそれで普通じゃないか、と思う。
しかし、私たちの場合は少し様相が違う。
車の後部から車椅子を下ろして、助手席からよいしょと立ち上がり降りてきた夫の、膝裏あたりに車椅子の座面を固定する。おもむろに、夫が座る。麻痺のある右足を台座に乗せて、左足で器用に車椅子を操作する夫の後ろを私が歩くのだ
江津消防署へ
夫の手術のあくる朝、看護師さんに呼ばれて救急病棟の予備の部屋へ行きました。
『ご主人が運ばれて来た時の道具なのですけれど、患者さんのご家族で返しに行って頂きたいのですよ。』
と、部屋の隅の小さな山になっているオレンジ色の荷物を指差されました。
江津の海で夫がケガをして、消防署の方々に助けて頂いたときの救急の道具一式でした。
『はい、わかりました。今日お返しに行けばいいのですね。』
『ええ、早いほうが良いのでお願いします。』
それで、ユウと二人の内どちらが江津まで行くかという相談になりました。
私は“行く”ことより“残る”ことを考えて、ユウに病院に残っていて欲しいと思いました。
夫の容態が安定していない今、万一のことが起きた場合、私は一人で対処する自信がなかったからです。
『じゃあ、母さんが江津へ行くのでいいんだけど、運転は大丈夫なん?』
ユウは、私の体の疲れが無いかを心配しました。
『大丈夫よ。外の空気を吸いたい気持ちもあるんよ。』と私。
『ん、わかったよ。気を付けて行ってよ。』とユウ。
まもなくして、支度も整い私は江津へ向けて出発しました。
出雲から国道9号線を西に走れば江津にたどり着きます。
夫の釣りのお供で、何度となく走った9号線は、いたるところに見覚えがありました。
今、一人でハンドルを握ってみるとぼんやりしていた地図がきちんと整理されていきます。江津の消防署も近場になれば見つける自信もありました。
一時間少々走ったでしょうか、江津消防署に到着しました。
消防署への手土産も思いつかずに病院を飛び出して来て、近くのコンビニで買い求めたキャンディを差し入れのように、受け取って頂くのが精一杯の私でした。
署員の方々に夫の救助のお礼を申し上げたら、消防署の皆さんはすぐに解って下さって、
『ご主人はいかがですか?』と尋ねて下さいました。。
『お陰様で無事に手術は終わりました。今はまだ集中治療室で意識がもどるのを待っている状況なんです。』
などと、お話しをした後、私はずっと気掛かりだった事を質問しました。
『ヘリコプターで搬送して頂いた料金は、いくらなのでしょうか?』と。
一万や二万円なはずはありません。
その何十倍の金額を想像して、私はどのように金策をしたらよいのかを、悩み始めていたのです。
すると、リーダー格らしい男性が
『心配なさらんでいいんですよ奥さん。無料ですから。』
と言われました。
『えっ、ほんとうですか?支払わなくて、いいんですか?』と私。
『ええ、大丈夫ですよ、請求は致しませんから。』
と、笑みを浮かべておられます。
よほど私の表情の変化がおかしかったのでしょうね。
私は何度も深くお辞儀をして消防署を出ました。
今来た道を折り返し、左手に山陰の海岸線を眺めながら、再び夫と息子の待つ病院へと車を走らせたのです。
義兄と義姉
広島市内に住んでいる義兄が、四時間以上もかかる出雲までの長い道のりを、夜を徹して来て下さることへの申し訳なさは、いつしか“安堵の心”へと変わっていました。
義兄の到着までにまだ時間があったので、私はもう一度集中治療室へ面会に行くことにしました。
静寂に包まれた集中治療室の大きなベッドに横たわったままの夫は、眠り続けるだけで、何をして良いかもわからない居心地の悪さは、何度入室しても同じでした。
黙々と働いている看護士さん達に話しかける気持ちにもなれなくて、孤独感すら感じてしまい、二三分しかとどまることが出来ないのでした。
夫の容態に変化がないことだけを確かめて、静かなその部屋を後にして、再び待合室へ戻りました。
やがて11時を過ぎた頃、義兄から電話が掛かりました。
『今、病院に着いたよ。何階に行けばいいの?』と義兄の声。
『三階の待合室に居るんです。エレベーターの前まで行きますから。』
と答えて義兄を迎えに出ました。
エレベーターのドアが開いたら義兄だけでなく、義姉の姿も一緒にあって…!
思いも掛けない出来事に思わず、
『まあ、お義姉さんも来て下さったんですか!!』と、私は大きい声を出していました。
そのそばで、義兄は優しく微笑んでいました。
『大変じゃったね。出雲の病院まで行くって聞いたから、私の家に寄ってもらったんよ。』
と、義姉のいつも通りの優しい声です。
義姉は私達が病院で飲めるようにと、自宅で淹れたコーヒーをポットに入れて、紙コップやスティックシュガーなども用意して持って来てくださっていました。
『心配だったでしょう!?。まあ一息つきましょうよね。』と義姉が言い、待合室のソファーに四人で腰を下ろして義姉の心尽くしのホットコーヒーを飲みました。
そのコーヒーの美味しかったこと!!
兄弟に支えられる心強さを私はしみじみと幸せに感じていました。
ひと息ついた後、
『面会しますか?』と尋ねたら、
『今日は会ったところで何もわからないだろうから、この次にするよ。』と義兄が言い、義姉も同じ意見のようでした。
それで、義母には何時知らせるか…ということの相談になりました。
義兄も義姉も私達と同じ意見で、夫の意識が戻るまで…、出来るならば、義母を認識出来るくらいに回復するまでは、知らせずに様子を見ることにしようと決めました。
わずか三十分程度の滞在で、私達を励ましてくださった義兄と義姉は再び深夜の街を帰って行かれました。
夫の兄弟
夫の手術が始まって私はやっと、夫の身内に知らせなければいけないことに気づきました。
夫は、姉二人と兄一人の四人兄弟の末っ子です。
義父は二十年前に他界しましたが、義母は九十歳を超えてまだ健在です。
今はまだ、夫の危篤状態を義母に知らせることは出来ないと思いました。
『絶対に生きててもらわなくちゃ!
絶対、お義母さんより先に父さんを死なせる訳にはいかないんだから!!』
と、私は激しく思っていました。
こんな状況のまま、息子に先立たれる親の辛さを義母に味わわせる訳にはいかない、と思っていました。
『母さん、とにかく伯父さんに知らせよう。その先は伯父さんと良く相談して、お婆ちゃんにはしばらくは内緒にしておいた方がいいのじゃないかな?』
と、ユウも私と同じ意見でした。
それで直ぐに、義兄と二人の義姉に電話を掛けましたが、日曜日だった為か誰とも連絡は取れません。
やがて、義兄から私のケータイに電話が入ったのは夕方六時を回った頃でした。
『これから行くよ!』と当たり前のように義兄が言い、
私はつい遠慮がちに
『いえ、遠いですから…』と答えていましたが、義兄は
『大丈夫よ。すぐ出掛けるからね!』と言って、電話を切りました。
『ユウ、お義兄さんがすぐに来て下さるって…! 』
と言っている内に、体中の冷え切っていた血が、ようやく暖かく流れ始めたような感じがして、私の心はほっとする思いに溢れていました。
私はとんでもなく、張り詰めた気持ちだったのだと初めて気が付いたのでした。
回想…集中治療室にて
物々しい医療器具に守られて、横たわっているだけの夫は、死線を彷徨っていたのでしょうか…?
深い眠りについているようにもみえました。
私はベッドのそばに近寄り、寝間着の右袖の先に指先だけが見えている手を、そっと触ってみました。
暖かな体温が伝わりました。生生きている証しのぬくもりです。
それから…
後は、どこを触ればよいのでしょう!?
口には呼吸器がしっかりと固定されているし、体中にはいろいろな管が差し込まれています。
うっかり触って管が外れたり、点滴の針が外れたりしたら大変だと思うと、これ以上、夫の身体を触ることを躊躇してしまいました。
しかし、こんな状態になっているにも関わらず、夫の左手は何かを掴もうとするかのように、時々小さく動いています。意識がない状態だと説明を受けたけれど“意識があるじゃないの!”と思った私は
『あ、動いてるわ!!』と口走りました。
すると即座に、
『これは、ただ動いているだけで、意識があるとは言わないのですよ』
と、医師の素っ気ない答えが返ってきました。
でも“動いているから大丈夫だ!!”と、私は心の内で勝手に安心することにしました。
面会時間は五分間くらいのものだったでしょうか。
それ以上そこに居ても、夫と何か語り合えるわけでもなく、体を触る事もできなくて、私はユウと集中治療室を出ることにしました。
患者家族の待合室にもどった頃は、町はすっかり夕暮れて、ネオンが灯るほどになっていました。
その頃になって、初めて食事をしていないことに気が付いて、私達は病院近くのスーパーに行き、夕食になるお惣菜とご飯を買い、今夜の寝具にタオルケットを買い求めて、再び病院の待合室へ戻ったのでした。
オレンジ
春めいてきた、暖かいある日。
長年の友達が訪ねて来ました。畑で採れたネギ、人参、ほうれん草を持参して!
久しぶりに会ってお互いの近況を話して、二時間余りの楽しい時を過ごしました。
『さあ、帰らなきゃね~』と言う彼女に、
『何もおみやげが無くてねえ~』と言うと、
『な~んにも!!“話が一番”じゃけね、楽しかったわあ!』と言ってくれます。
『だけどねえ~。そうそう、これ食べてよね。瀬戸内の島で買ってこられたのを頂いたんだけど…』と、オレンジをお裾分けしました。
友達が帰って、夕方にご近所のお爺さんが、みかんと八朔とデコポンの三種類のオレンジを持って、訪ねて来られました。
『いつもあんた方に邪魔するけえのぉ~、ばあさんが持って行って来い言うたんよ』と笑顔で話して帰られました。
“金は天下の回りもの”ならぬ“オレンジは天下の回りもの”というタイミングの頂きものでした。
自家栽培の野菜を頂いたり、海釣りの魚を頂いたり。
我が家では、いろいろな食材をもらう事も多くて、本当に有り難い事だと感謝しています。
そして、その“有り難い”を他の誰かにもお裾分けしたくなります。
美味しいものを新鮮な内に皆で共有して食べれたら嬉しいと、ただただ単純に思うからです。
私達は、人々の優しさや親切や慈愛に包まれる幸せを感じながら、日々を生きています。